忘れじの面影、忌まわしの記憶 Pt.4

シリーズ第4回目は、平成の3バカと謂われ、我が人生に大きな汚点を残す三大失敗移住地のうち過去の2つである桶川と坂戸の特集である。
ことの経緯は本記事の巻末に記すのでぜひ続きを読んで貰いたい。


東京・上野から40キロ、関東の辺境地桶川に降り立つ


西口歩道橋から見下ろす光景


駅前のショッピングセンター
ここでは後年に有名な殺人事件が惹起しているが、被害者の自業自得であったと云われる


これが悪名高き桶川ビュータワー
辺境の地に突如現れた高層マンションは愚かさの象徴でしかない


西口公園

続いて、三バカの2つ目である東坂戸をご覧いただく


桶川を去ったあと、移り住んだのがこの建物である


団地センターの入り口にある郵便局


団地センターであるが、半数ほどは空きテナントであり衰退を窺わせる


これはマミーマート
若葉駅前の商店群と合わせ、大抵の買い物は用が足りたと思われるが…


全室南向きだったことと、適正な家賃だったことは現実に即しており評価されているが
やはり東京からの距離は如何ともしがたいものがあったのも事実である


これは若葉駅
この若葉駅か、川越駅からバス、がこの団地へのアクセスであった

編集後記

桶川には1995年夏ころから1997年秋頃まで2年半弱の居住であった
メインブログにも書いたと思うが敵一味宗創医連合は「箱物幻想」を煽り立て他の問題をスピンしていたという専らの推定である
その後、97年秋になってその高コストが大問題となり生活が行き詰まってきていたこともあって退去を決断
決断したはいいが、更なる辺境への誘導が入って仕切り直しを妨害されたことが大きな問題となって現在でも紛糾している

東坂戸については98年春までの約4か月と極めて短命に終わっている
この東坂戸、東京からの距離は如何ともし難かったものの桶川に比べればはるかに現実的であり仕事さえ続けられていれば何とかなっていたのではないかと思われるが後年これよりはるかに現実的な選択がなされたことを考えればまだまだ幻想の産物と言え、なぜ民間物件を都内で探す、という選択肢に至らなかったのかが大いに問題視されている
また、これは所謂バス団地であり鉄道駅からのアクセスが兎に角不便であった
このことから、現在では現に自動車等を保有する場合を除きバス団地等は禁忌条項となっているが当時なぜ自転車を保有しなかったのか大いに問題視されている
自転車で通勤は現実的でないとしても日常生活には欠かせないものだったはずでこの地では生活を確立させないために保有させなかったのではないかという疑いが強まっている
つまり、ここであってもその生活を確立されては後年に予定していた邪悪な誘導にとって都合が悪かったということなのである
その邪悪な誘導の誘導先とは住み込みという不自由な環境での新聞専業という吾輩には不適なブラック環境であった
そのためには、当時の職業では都合が悪く、また彼の地で別の仕事を見つけられても都合が悪かったということにほかならない
何故なら、後年に移住した杉並(これ自体が敵一味の都合に真っ向から逆らっていた)、後に薄汚い誘導で押し込められた薄汚い辺境の地ではいずれも自転車の保有がされていることからこれは間違いない
敵一味宗創医連合としては、この当時既に最終的な邪悪な誘導(薄汚い辺境の地で人工透析に貶める)が決まっていたとみられておりそのためには一つも都合の悪い選択をされたくなかったが為に微に入り細に亘って不当な思考介入を行い都合よく誘導したのだということである
平成の3バカの残る一つとは云うまでもなく今大問題となっている1741市町村の下から2番目、薄汚い辺境の地である

我が一家はいかなる理由においても敵一味宗創医連合とその手先を皆目許さず、医療関係者従事者による交際行為、交際類似行為を絶対に許さない
それが我が一家の矜持だということであり、この神聖なる矜持を犯す輩にあっては命を保証などしないということになること、予測不可能な致命的結末となることを覚悟して貰うということである!

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